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2010年06月17日

自己紹介(その13〜最終回:大学時代〜今日)

高校3年生でのインターハイを最後に競技生活を引退して、1977年に中央大学に進学した私は、特段スポーツをするでもなく(建前上は)学業に専念することになった。
入学後まもなくの履修説明では、必修である体育実技科目の実施方法が説明され、希望する競技を選択して、1年間通してその競技を週1回のペースで履修するというものだった。
人気の「軟式野球」「サッカー」から、武道各種、極めて不人気の「相撲」まで色々あって、もちろん「陸上競技」も含まれていた。
私は当初、陸上は飽きるほどやったから、久しぶりに「軟式野球」がいいな…なんて思っていたんだけど、競技ごとに定員があって、希望者が定員オーバーの場合は抽選になり外れた者は定員割れの不人気競技に回されるという説明にビビってしまった。
うっかり「相撲」に回されたらかなわないと思って、結局「陸上競技」を選択した。さすがに陸上は「抽選」はなくて、ほぼ定員通りの希望者だったらしい。
ただし、希望者の多くは積極的に選ぶというより、人気種目に未練を残しながら「相撲は勘弁」「武道は厳しそう」というような、消極的な動機で陸上を選択した者が多かったようだ。
こうして、引退した身でありながら「陸上競技」とは縁を切れない生活は続いた。
 
[大学1年|先生は名監督]
1年生の時の体育の先生は、西内文夫助教授だった。
当時は女子陸上競技部(本学の場合、男子と女子は別の部となっている)の監督をされていたと記憶しているが、同じ陸上競技とはいえ長距離種目に関心がなかった私は、西内先生の偉大さを知らずに授業を受けていた。
これは卒業後に知ったのだが、この先生は元は(男子の)陸上競技部監督で、箱根駅伝の第35回大会(1959年)からの6連覇の指揮を執った人だった。
このほか、東京オリンピックの際には日本チームのコーチを務め、マラソン銅メダルの円谷幸吉選手を徹底的に鍛え上げたという実績もある。
(知ってたら、サインでも貰っておくんだったね)
現在は一種過熱気味とも言える人気の箱根駅伝だが、当時はテレビ中継はなくNHKラジオの中継だけで一般の関心は薄く、陸上をやってた私でさえ「陸マガ」「月陸」に出ているから一部の有力選手の名前くらいは知っていても監督やコーチの名前など全然知らないほどだったから、西内先生の知名度もさほど高くないが、
現在知名度の高い上田誠仁氏(山梨学院大)、大八木弘明氏(駒大)でさえ足下にも及ばぬ実績をお持ちであることがお分かりいただけるだろう。

授業の場所であるが、当時、本学は都心にあって、こんな状態だったから
[外部リンク:1970年初めの中央大学を懐かしむ]
まさかここで「陸上」というわけにはいかず、陸上競技部の合宿所のある練馬グラウンドで行われた。

そこは1周400mのトラックだが「土」。当時は、大学のグラウンドでタータントラックがあるのは筑波大学くらいだったから当然といえば当然。
走幅跳の助走路と、走高跳の踏み切り場所付近にはタータンが土の上に敷いてあったが、当時の大学としては良い方だろう。

前述のとおり、消極的な理由で陸上を選んだ人間が多かったし、法律学科の場合は浪人して入学した者の比率もかなり高かったため「運動不足」の者も多かった。本格的な陸上の経験があるのは私ともう一人くらい。
授業内容は、ルールや理論の座学、基礎練習と記録会、そして試合観戦も課せられた。
座学の授業では、結構積極的に発言したと思う。小学校以来、あまり授業で発言するのは好きではないタイプだった私だが、「陸上」となると人が変わるようだ。

記録会は、私の独壇場だった。
実は、陸上をする気もないのに東京にスパイクを持ってきていたので、さらに有利だった。
インターハイ後の「ナイター陸上」以来、体育の正課の授業以外では全然運動していなかった私だが、まだ100mは11秒6で走れた。
専門的な競技としては経験のない走幅跳は5m90走高跳は1m70 だったが、高校時代には特に計測をしたことなかったからこれを一応の「自己ベスト」と今も称している。


その記録会で計測の補助をしていたのは、頭は角刈り、顔も体格も巨人の星の「伴宙太」とそっくりなゴツイ人だった。
その貫禄から、てっきり大学院生か助手(今でいう「助教」)に見えたその人は、後年、陸上競技部監督として母校を久々の箱根駅伝優勝に導いた木下澄雄さんだった。
驚いたことに、公開されているprofileによると、木下さんは私よりたった1つ年上なだけ。つまり、あの授業の当時は大学2年生だったことになる。
もっとも、そういう事実を知ったのは最近になって箱根駅伝関係の書籍を読んだときであって、当時はそうとはつゆ知らず授業を受けていた。
だけど、木下さんには「やるねぇ」とか結構ほめられたな。

試合観戦を指示されたのは国立競技場での関東インカレだった。
そこでは、なんと西内先生が表彰されていた。
なるほど、表彰式があるからグラウンドでの授業がなかったわけだ。
後日、入場券の半券を提出して「出席」と認められた。

全体として、「体育実技」の授業は楽しかった。
「楽しく」陸上をするなんてのは、考えてみればこれが初めてだったな。
[大学2年|おじいちゃん先生の”箱根”]
2年生になると、大学が八王子市という郊外に移転して新設の広大なキャンパスにはタータントラックの陸上競技場も作られていた
8レーンの400mトラックが全てタータン舗装というのは、大学の専用競技場としては筑波大に次いで国内2例目ではなかっただろうか。
しかし、専門的に陸上に取り組んでいてもタータントラックを走る機会が少ない当時、体育系学部でもないのに一般の授業で使うとは贅沢な話である。
施設面で特徴的なのは、水濠がトラックの内側に設置されていることと、日本国内ではホームストレートを北から南に向かって走る競技場が多いところ、敷地の形状の関係からかここは南東から北西に向かって走るように配置されていることだった。
当時は数少ないタータントラックとして、学連の記録会などもここで盛んに行われていたようだが、南寄りの風の吹くことが多い春先から夏にかけては100mなどの直線種目で好記録が生まれやすかったかも知れない。

大きな地図で見る

この競技場の魅力に釣られて(?)、別に1年次と同じである必要はなかったが2年生でも体育実技は陸上を選択した。
高校時代、インターハイのために購入したタータントラック用のスパイクシューズだが、インターハイの競技以外ではほとんど使う機会がなく、使った回数としては、この年の授業で使用する回数の方が遥かに多くなった。

先生は、村上利明教授。当時で還暦くらいの方だっただろうか。この先生も、元は陸上競技部の監督をされていたらしい。
この年は、記録会のような競技性の高いことはあまり行わず、競技場では基本を学んでお終いという感じでやや物足りなかった。
そのかわり、マッサージ、ストレッチやエアロビクスのようなことが多かった。

この先生の授業で面白かったのは、グラウンドやジムで身体を動かすことより、教室での座学の方だった。

なかでも印象に残るのは、箱根駅伝にまつわる話で、かなり感動させられた。
村上先生は、大東亜戦争中に本学に在学し、陸上競技部員として投擲を中心に十種競技もこなす選手で主将でもあったという。
箱根駅伝については、戦争のために1941年と1942年は中止されていたのだが、1943年(昭和18年)大会は、各大学の学生幹事やOBの奔走により、変則的な形ながら、1941年の日米開戦から終戦までの間では唯一となる箱根駅伝開催にこぎ着けた。
ただし、そのときは戦争中という非常時であるとして東海道の使用が差し止められたため、都心の靖国神社と東京都青梅市にある「箱根神社」を往復する『靖国神社-箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会』として実施された。
問題は選手層。所謂「学徒動員」はまだだった(その年に行われた)が既に多くの選手が戦地に赴いていて長距離選手だけではメンバーが揃わない。
とにかく、短距離も跳躍も関係なく選手を掻き集め、最後には投擲選手の村上”選手”が第1区に入ってチームを構成したという話だった。
スラリとした体形の各校の長距離選手が揃う中で筋骨隆々たる投擲選手は浮いていたというが、それでも中位は確保したというから、なかなかの力走だ。
当時の様子は、 [外部リンク:中央大学駅伝応援サイト] に掲載されていて、成績は[外部リンク:同サイト] で確認できる。
村上先生の姿は戦後の1947年大会のものが載っているが、やはり長距離選手には見えないゴツさだね。

先生は、その箱根駅伝や、当時の合宿所のオンボロぶりを述懐しながら、それでも頑張っていたと語る一方で、
練習場も合宿所も劇的に環境が良くなったこの年に合わせたように、インカレも駅伝も成績不振に陥っていた母校を嘆いておられた。

その後、箱根駅伝がテレビ中継されるようになると、 「箱根駅伝今昔」のコーナーに村上先生が登場した。
いやー、懐かしかったね。「まだ、お元気なんだ」と嬉しくもあった。
先生は当時の苦労を振り返り、その駅伝の後、学徒動員で戦死された仲間を思って涙されていた(村上先生も学徒動員で戦地に行っていた)。
[8か国対抗陸上観戦]
2年生の夏休みがおわって、東京に戻ったころ、国立競技場で「8か国対抗デサント陸上」が開催されることを知る。
8か国とは、日本・アメリカ・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・ソ連のことである。
「冠大会」ということでも、陸上としてはこれが国内初だったらしい。
なんとか観戦したいが良い席は売り切れだろうな。聖火台のあたりの”天井桟敷”なんかで見るくらいなら、テレビの方がマシだなとか思いつつ、
頭に浮かんだのは「そうだ、E先輩なら”順大ルート”でなんとかなるんじゃないか?」
E先輩なら、世界一流の選手のパフォーマンスを見に行かれるのではないか?もしそうだったら、”ついでに”1枚くらい都合してもらえないかな…と淡い期待を抱いて電話をかける。
すると、なんと期待どおりE先輩も見に行くつもりで、あと1枚は都合出来ると仰るではないか!

E先輩とは、9月25日の大会当日、国立競技場の代々木門付近で待ち合わせた。
席は、E先輩が注目していた走高跳の見やすい第1曲走路を見おろす中段だった。
スタンドはほぼ満席。それまでもラグビー観戦などでは国立競技場のこういうスタンド風景も見ていたが、陸上でこの観衆とは驚いたな。
走高跳では男子のウラジミール・ヤシチェンコ(ソ連)、女子のサラ・シメオニ(イタリア)という当時の世界最高峰が来ていた。
この日の他の種目を見回しても、これほど充実していた種目は他に無かった。
ただ、私の注目は400mから400mハードルに主な活躍の場を移した長尾隆史選手(岡山工高−筑波大)のパフォーマンスだった。
あの走力を、ハードルでどれだけ活かせるのだろうか。
長尾選手は、この種目にあまり専門的に取り組んでいなかった高校時代、インターハイ後の秋のシーズンで52秒7の日本高校新記録をマークしていたこともあり、当時の日本記録(51秒1)の更新が大いに期待された。
さあ、その注目の400mハードルがスタート。長尾選手は序盤から飛ばしていた。
E先輩も私も「無謀ではないか」「玉砕戦法か」と口走ったが、後半の落ち込みも少なく、惜しくも外国勢には敗れたが、日本記録更新どころか日本人で初めて50秒を切って49秒59の日本新記録達成だった。
いやー、長尾選手はいつも良いものを見せてくれる。
学生としては安くない入場料を払った甲斐があろうというものだった。

いまでこそ、日本が選手層の厚さを誇る400mハードルだが、このときがその出発点と言えるだろう
その種目に取り組んでいた者としてその瞬間に立ち会えたのは、無上の幸せだったと思う。
そして、この機会を作ってくれたE先輩に感謝したい。
[ブランクを経て現在へ]
2年生も終わりに近づいた1979年2月に父を亡くした私は、その精神的痛手から無気力で悶々とした日々を過ごしていた。
ちょうど帰省中で「死に目」には立ち会えたわけだが、側にいながら父の死を指をくわえて看取るしか術がなかったことで、「死」という厳しい現実の前には法律学なんて無力だなぁ…と感じて学業にも身が入らなくなったりもしたが、それは、単に私の精神的弱さに起因するものと言うべきだろう。
卒業後の”浪人”を強いられるうえ合格の保証があるわけでもないとして司法試験受験をあきらめ、企業に就職することにしたのもこの時期だ。

3年生になると一般教養科目としての体育実技もなくなり、自分自身としてスポーツをする機会も激減する---というよりゼロだった
インカレは見に行っていたけど、どちらかというと国立競技場のおとなり神宮球場での東都大学野球リーグに関心が移っていった
前述のように本学の陸上競技部が低迷する一方で、硬式野球部が好調だったからだ。
野球部の4年生には、このほどヤクルトの監督代行になった小川淳司選手がいたし、私と同じ3年生には横浜などで活躍した高木豊君がいた。
この他にも卒業後プロ入りする優秀な選手を多数擁した野球部は春のリーグ戦に優勝したばかりか、全日本大学野球選手権の決勝でも現オリックス監督の岡田彰布選手が主将を務める早稲田大を破って優勝した。
因みに私は早稲田大の準決勝の試合も観戦しているが、その相手は東海大。4番打者は現巨人監督の原辰徳君(当時3年生)だった。
決勝戦後は神宮球場から新宿まで自然発生的に学生が”行進”し、私は試合結果が報じられたスポーツ紙の号外を買い求めて、新宿コマ劇場前で大声で朗読するという”蛮行”に及び周囲から喝采を浴びたりもしたが、まさに”ラリぴー”並みに「ハイ」になっていたな。
ここでは、精神的に落ち込んだ私を救ってくれたのは野球部の諸君の活躍だったと言えるだろう。
これ以降は生活面では元気を取り戻した私だが、そういう経緯から、この時期からは「見るスポーツ」としてはプロアマ問わず野球ばかりになっていった。

4年生になると就職活動に注力して、陸上も野球もあったものではなくなった。
就職先がM銀行に内定してからは、フジテレビ(地元では石川テレビで放映)のクイズ番組『クイズグランプリ』に出場して優勝するなどしたが、それは一時のご愛嬌。
クイズグランプリ優勝カップ
1981年の大学卒業後は、赴任地の神戸や東京で(サービス?)残業で疲弊するばかりの日々を過ごす。

その後、銀行の残業続きに心身ともに疲弊しきった私は、職場の同僚との結婚を機に銀行を退職して加賀にUターン。
大学時代の専門を活かした国家資格を取得して自由業者となったが、大学卒業後から続く陸上とは無縁の生活は、しばらく変わらなかった。
その後30代の一時期、1991年の東京世界陸上に触発されて(?)マスターズ陸上に参加し、神戸ユニバー競技場での全日本マスターズに出たりもしたが、アキレス腱を痛めて3年ほどでやめた。
それからは、漢字検定(準一級に合格)を受けたりプレステに嵌ったりの”オタク”生活が続く。
陸上に関係があるとすれば、プレステのゲーム『ハイパーオリンピック・イン・アトランタ』だろうか。
ゲームでマークした100m 9秒65 の記録は現実世界で破られたが、走幅跳の 9m30 はまだ破られていないなぁ。
その私が、”現実世界で”小学生に陸上を指導するようになるのは、40代も後半、走るどころか階段の昇降も満足に出来ないほどの疾患から回復しかけた時期だった。
指導者の声がかかったときには「病後のリハビリにはちょうど良かろう」くらいに思ったものだが、いざトラックに立つと熱い気持ち= Passion が湧いてきた。
一人娘は東京の大学に進学して卒業後も東京の企業に就職したから、クラブの子供達を我が子と思って頑張ろうとも思った。

練習の開始前、私は、しばしばマイルリレーのリレーゾーンに立ってみる
私にバトンを持ってくるA谷さんやT山の姿を目に浮かべては、気持ちを高めて指導に臨む日々である。
しかしそれも、やがて終わる日がやってくる。
だからこそ”今このとき”に Passion を注ぎたいものだ。
(完)
ps-----
これまでの内容のうち、レース展開等についての記述がまるで観客目線のように客観的で且つ詳細であるのはどうしてかというご質問をいただいたことがありますが、
私の競技の模様は父が8mmフィルムで撮影していたケースが多く、それを繰り返し何度も見たことに加え、現在も保存している当時の陸上専門誌の内容やスチール写真、それに私の記憶を総合して文章を綴っているため、競技者本人の目線だけでは普通は分からないような内容も含まれることになります。

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posted by Yujiri@Kaga at 08:01| Comment(0) | TrackBack(0) | Profile | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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