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2010年06月14日

自己紹介(その12〜高校3年 2/2)

県大会において、個人3種目+リレー2種目の計5種目で北信越大会出場権を得た私だったが、
二兎どころか「五兎」を追ってはインターハイ出場は覚束ないということで、私なりに「計画」を立てていた。
私としては、県大会で快勝し、その後に行われた「北陸三県大会」でも富山、福井の高校1位の選手に先着して自信を深めていた400mハードルで早々にインターハイ出場権を獲得し、その後はリレー種目を優先して、これが最後の競技会となるであろう仲間達ととも走ろうと思っていた。
しかし、自信をもって立てたはずの「計画」は、大会1日目にして脆くも崩壊してしまう。
「インターハイ出場は絶望」と落ち込む私を救ってくれたのは、、、、、。
 
[北信越大会]
県大会の後に金沢市営競技場で行われた「北陸三県大会」では私は400mハードルに出場し、高校生としては富山県大会1位のM辺君(富山商)、福井県大会1位のS水君(高志)に先着し、記録的にも自己ベストということで、自信を深めていた私は、この種目でのインターハイ出場を確信していた。
一方、県大会で苦戦した400mについては、インターハイ出場は厳しいと思っていた。200m? あれは話にならんでしょ。
今年の北信越大会会場は、前年の「北陸三県大会」の良いイメージが残る福井県営陸上競技場。
何もかもが追い風に思えたものである。

第1日の400mハードル予選は難無く通過した。前年の反省から気を緩めることはしなかった。
身体はよく動き、調子はすごく良かった。
そして準決勝。決勝は2日目に行われることになっていたから変に「流す」必要もない。思い切っていこう。
レーンは1レーン。ちょっとイヤな感じがした。
この種目では1レーンは初めて。カーブがきつく「左足踏み切り」が基本の私にはハードリングが難しいうえ、フラットレースではあまり気にならないトラック内側の縁石が、この時は凄く気になった。
このように、スタート前の私の脳裏にはマイナス思考が駆けめぐっていた。
「いや、調子はいいんだ。少なくとも今年は石川、富山、福井の高校生には負けたことはないんだし自信をもて」と、自分に言い聞かせてマイナス思考を打ち消そうとする。
スタートすると、このときも身体はよく動いていた。いや、動き過ぎていたというべきか。
45m地点の第1ハードルが異様に早く迫ってくる気がした。「近すぎる」と思った判断が正しかったかどうかは分からないが、脚を合わせようとストライドを縮め減速してしまう
「しまった。しかしまだ1台目。挽回のチャンスはあるから焦るな」と動揺を抑えて、レースを続ける。
実際、その後は問題なくレースを続けられたしホームストレートに入った9台目では決勝進出圏内まで挽回して、さらに先頭に並びかけていた。
「なんとかなったな」と思いつつ向かった最終の10台目だった。
気を緩めたつもりはない。多分、出遅れを挽回してきた疲れだろう、脚が合わずまたも減速
この種目は、10台目のハードリングで失速すると、疲れた脚で残り40mを再加速するのはほぼ不可能である。
失速して喘いでいる私を嘲笑うかのように先頭は遠ざかり3人が抜いていった。5着=準決勝敗退だった。
こういうレースでもタイムが57秒0の自己ベストというのは、あまりに痛烈な皮肉だった。
スムーズにハードリングが行えたならインターハイ出場が濃厚となる55秒台も可能だったことが、こういう形で”証明”されたところで、屁の突っ張りにもならない。
どのレーンであれ、どんな体調であれ、安定的にハードリングを行えることも実力のうちであることは言うまでもない。
フィニッシュ後の私は茫然自失である。
思い描いていた「計画」はあっけなく崩壊した。
2日目の400mにはあまり自信がないうえ、同じ2日目に行われる4×100mR は仲間とともに走る締めくくりだから、勝ち残る限り棄権したくない。
しかし、400mに賭けたい気持ちがないと言えばウソだった。どうして良いのか分からない。
悶々とし、誰が話しかけても生返事しかできない状態で宿に引き上げた。

2日目の夜が明ける。当然ながら時間は待ってくれない。
競技場に着いても迷っていた。
「しょーがない。予選はとりあえず2種目とも出よう。どっちかが予選落ちすれば迷う必要もない」
なんだか、予選落ちを待望しているかのような気持ちになってしまう。
その日の最初に400mハードルの決勝が行われたが、私はアップと称してあえてサブトラックに行っていた。
辛くてとてもレースを見ることはできなかった。

そしてこの日の予選が始まる。
「どっちかが予選落ちすれば」なんて思っていても、競技者ならばトラックに立てばそんな気持ちは消えるものである。
全力を尽くした結果、どちらも予選を通過した。
先送りしていた決断を迫られるが、なかなか決められない。
自分の気持ちは400m出場に傾いていたが言い出せなかった。
400mに自信があれば言い出しやすかったのだろうが、自信がなかったから…。
他のリレーメンバーには個人種目の出場権を持っていない者もいる。
リレーも準決勝に進んだのだから、結果はどうあれ最後まで全力を尽くしたいとメンバーは思っているはずだ。
私とて、自分のために彼らを不完全燃焼で終わらせることなど許されないという思いもある。

迷いに迷い、チームエリアで悶々としていると、”O”が私に声を掛けてきた。
「リレーは棄権でいいから400に出ろ」
「ホントにいいのか?」
「リレーは(インターハイは)無理だが、お前の400は可能性がある」
H野も続いて
「そーや、可能性のある方に賭けるのが当然や」


ああ、なんてこった。
入部以来「突っ張り」どおしで、今風に言うなら「ジコチュー」に競技してきた私に、インターハイに向けたラストチャンスを与えてくれるという
個人種目(三段跳)のあるH野はともかく、”O”はリレーだけのエントリー。
自らの競技を「準決勝棄権」という不完全燃焼に終わらせてでも、私をインターハイに行かせようというのである

私自身、自分の「ジコチュー」に起因して部内で”浮いている”ように感じていた。
だから、事ここに及んで、彼らの側からこのような声が出るなんて全然予想していなかった。
これは”O”もH野も山代小〜山代中出身で、幼稚園児のころからの知己だったからこそのことかも知れないが、これまでの「ジコチュー」ぶりにもかかわらず、サポートしてくれるのかと感謝した。
これをキッカケに、私の陸上競技や部活動というものに対する考え方は大きく変わる。
トラック競技は自分独りが引っ張り、結果が悪ければ自分独りで引っかぶるという意識だった。
しかし、そうではないことを競技生活も終わりに近づいたこのとき思い知る。
周囲のサポートあったればこそ結果が残せるし、結果が悪ければ周囲が救いの手をさしのべてくれることもあるんだと。
リレーをともに走るのもチームワークなら、個人をサポートするために敢えて棄権するのもまたチームワークと言えるのかも知れない。

さあ、こうなったからには、結果で応えるしかないわけだが、県大会、そしてこの日の予選レースを通じて、400mには行き詰まりを感じていた。
後半勝負を基本にしてきたこれまでのレース展開では、可能性が感じられなかったのである。
ならば、冒険ではあるが先行型に切り替えるしかなかろうと考えた。
考えてみれば、これまでマイルリレーで好走したときは前半から突っ込んでいるのだから、個人のレースでも出来ないことはないはずだが、
オープンレーンで(個人の決勝に比べれば)やや力の落ちる選手が抜く目標となることが多いリレーと、そういう目標のない個人レースを単純に同視することは出来ない。
しかしここは、「リレーのつもりで」前半から攻めていこうと決める。

準決勝は2組3着+2。
予定通り前半から飛ばした、何とか後半も潰れずに走り切れはしたが結果はタイム発表待ちの4着。「やはりダメか」とあきらめかける。
しかし、アナウンスされる結果を書き留めていた女子マネージャーM岡は、弾んだ声で「yujiri君、決勝行けるよ」

なんとか命拾いした。
先行型に切り替えてもとりあえず最後まで走り切れることは分かったが、準決勝で4着ではさらに一段レベルを上げないと厳しいとも思った。
レベルを上げると言っても、終盤の追い込みは既に限界と思われる以上、レベルアップの余地は前半に見出すしかなかろう。
後半の失速を恐れて前半をセーブしていて望みがないのなら、恐れずに前半から突っ込むしかない。
それで潰れたところで、インターハイに行けないという結果は同じだと割り切った。

さあ決勝だ。
タイムで拾われた私だったが今回ばかりは4レーン。最後の最後にして、良い意味で現行ルールではありえないレーンに当たった。わーい(嬉しい顔)
”あの”T中君(高志高校)は6レーンだった。
スタートすると、ほとんど200mレースのように前半を遮二無二飛ばした。すると第4コーナーを出たときには前にはT中君しかいなかった。
[400m決勝でバックストレートを走る私(4レーン)]
'76北信越400m決勝
しかし、そこで酸欠状態となった私は、なかなか脚が思うように動かず、自分の動きがスロービデオのように思えた。
ホームストレートの80mのなんと長いことか。その時の私には80mが2倍くらいに感じた。
私の横を何人かの選手が抜いていった。実感としては次々と抜かれたように思えたから、フィニッシュしたときには6着ギリギリかと思った
「大丈夫だったか?6位以内だったか?」息も絶え絶えに、フィニッシュ地点にいた後輩の1年生N野に尋ねるが、彼は戸惑ったような顔をする。
(当時は、”持ち込み”のスターティングブロックも一定の条件で使用可能で、その場合はチームメイトが”スタブロ撤収係”として付き添っていた)
ならばと「俺の後ろに2人以上いたか?」と問い直す。
N野「2人どころかいっぱいいましたよ」
私「だったら6位以内間違いないな」

結果は4着、つまりホームストレートで私を抜いたのは2人だけであり、私の後ろには4人いたことになる。随分と実感とは違うものだが、それほど余裕がなかったということだろう。
N野が戸惑った表情だったのも、わざわざ尋ねるほどでもないのに…と思ったからだろうが、酸欠状態でもがいていた私には、優勝がT中君という以外は何も分からなかったのである。
タイムは 51秒5 の自己ベストだった。

とりあえず(?)N野に抱きつく私。ま、誰でも良かったよ。
顔は涙でクシャクシャだ。
その顔のまま、水濠付近に張ったテントに戻る。
拍手で迎える仲間に向かって
「みんなありがとう」
ぎこちなく言った簡単なこの一言だが、これが前日までの私には言えなかった言葉だった
しかし、この一言を言えたときのなんと気持ちの良かったことか。
チーム全員で勝ち取ったインターハイ出場権と言えるだろう。

最終の3日目。
私がエントリーしていたのは200mとマイルリレーだったが、200mは棄権した。
個人種目でインターハイ出場権を得た以上、当初考えていた「計画」に戻ってチーム優先だ。
マイルリレーは、県大会と同じオーダー。
私以外は、今大会はリレーのみの出場で、T山とY田は今大会初登場だ。
4×100mR準決勝を棄権した”O”も、苦手なロングスプリントを精一杯走り、予選ではチームのシーズンベストを記録して準決勝に進んだ
マイルリレーの「準決勝」は県大会では設定されなかったラウンドで、さすがに私以外のメンバーには比較的短い間隔でロングスプリントを走る経験が無かったため、良いパフォーマンスはならず敗退したが、気分は晴れやかだった。
このほか、フィールド競技では、N島がやり投で3位入りインターハイ出場権を得た。

後日親から聞いた話では、私の400mのために4×100mRを棄権したことについて、私が皆に「ありがとう」と感謝していたことは、N江先生は「たいへんよかった」と親に話していたらしい。
私にとって、単なるインターハイ出場権という以上のものを得た。
これが、この北信越大会だったと言えるだろう。
[長野インターハイ〜卒業まで]
北信越大会後、長野インターハイに先立つ7月に金沢市営競技場で行われた、石川県選手権では400mの石川県高校記録(当時は多分 50秒7 だった)の更新を狙ったが、51秒0 の自己ベストに留まり2位(優勝は金沢大の選手)だった。ちょっと惜しかったな…。この時はガタガタの1レーン。これがセンターレーンだったらなぁと悔やんだが、この競技場ではトコトン最後まで良いレーンに当たらなかった。しかし、この好記録は自信にはなった。

1976年のインターハイは長野市での開催だった。
北信越地区内ということで、「旅行」という意味ではちょっと残念だったな。
新幹線や飛行機を利用するわけでなく、長野市へは、N島とともにN江先生の自家用車に乗っての移動だった。
それも1976年当時は北陸自動車道も全通しておらず、小松ICから金沢西ICまで走っても意味はないとして全て一般道路で行ったから、かなり疲れた。
車中、カーラジオではモントリオール五輪の中継を聴いていたが前回金メダルの男子バレーがキューバに敗れる試合だった。それが終わると、高校野球石川県大会の中継。なぜか富山県内でもよく聞こえた。小松辰雄(星稜)が投打に活躍していたっけ。

この大会は、開会式こそ好天に恵まれたが、その後は雨続きで、陸上競技としては最終日にようやく夏らしい天気に戻るといった具合だった。
400m予選は、その雨の中で行われた
前回大会では、タータントラック用のスパイクシューズが間に合わず、普通のスパイクシューズのピンを「平行ピン」に付け替えただけで臨んだが、今回はタータントラック用のスパイクシューズを履いての出場だ。
タータントラックは、前回インターハイに続いて2回目だが、初めてだったのはタータントラック用のスターティングブロックだ。
前回は、リレーの3走だったからスターティングブロックを使っていないのである。
いやー、戸惑ったね。土のトラックにペグを木槌で打ち付けて固定するのに慣れていた身としては、上から踏んづけるだけで本当に大丈夫なのかと不安になる。
それに、これまでのように、木槌をコンコン打ちながら気持ちを高めていくということが出来ないから、なんだか気合いが入らない。
まあ、昔人間はこんなもんです。

雨のレースは得意なはずだった私だけど、それはグチャグチャの土のトラックでの”乱戦”での話であって、単に濡れているだけで全然ぬかるまないタータントラックではそれは通用しなかったな。
結局、自己記録に及ばない51秒65のタイムで6着。あえなく予選落ちで、私の競技生活は終わりを告げた。
[第2コーナー付近を走る私]
'76インターハイ
陸上競技の最終日は、夏らしい天気となり、炎天下の下でやり投が行われた。
N江先生と私がバックスタンドから見守るなか、本校のN島は好調で、ベスト8にも残り期待された
結果は7位。現在なら「入賞」というところだが、当時は6位までが入賞とされていたので惜しいところだった

大会終了後は、これが自家用車で来たことのメリットか、長野からの帰路、N江先生が戸隠高原の民宿に一泊させてくれ、骨休めをさせてもらった。

その後、夏休み中に石川県ナイター陸上(小松末広)の400mに出場して優勝するが、それは競技というよりレクリエーションというのが自分の中での位置付けだ。
同じく夏休み中に行われた国体予選には、既定方針どおり出場しなかった。

国体予選に出場しない=国体に出場しない以上、夏休みが終われば受験である。
志望校(複数)は、陸上競技でも強豪校とか伝統校と言われる大学ばかりだったが、高校には陸上が目当てで入ったんだから、大学は学業専念で…と決めていた
だから脇目も振らずに受験勉強-----してたかと言えば、そうでもなくて、結構「青春」していたけどね(笑)。

脇目を振りながらの短い受験勉強期間ではあったが、それでも、なんとか志望校のひとつであった中央大学法学部法律学科に入学できて、そこで法律の勉強にいそしむことになる(はずだったけど…どうかな)。
入学前から決めていたとおり、陸上競技部には入らなかった。だから、皆さんお馴染みの赤い「C」のマークを付けたユニフォームで走った経験はない

このように、陸上競技から離れた私だが、次回は最終回として、ひとりのファンとしての陸上との関わりから現在に至る過程を簡単に紹介して結びとしたいと思う。
(つづく)
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posted by Yujiri@Kaga at 07:57| Comment(0) | TrackBack(0) | Profile | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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