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2010年06月03日

自己紹介(その9〜高校2年 2/3)

県大会で優勝した400mとマイルリレーの2種目でのインターハイ出場と、
県大会では大失敗した400mハードルでのリベンジを期して、北信越大会が開かれる長野県松本市に乗り込んだ。
その年のインターハイは東京開催。
陸上競技会場はオリンピックスタジアムである『国立競技場』
とあって、モチベーションは一層高まっていたが、それは、参加選手は皆同じだっただろう。
だから当然、大会は色んな意味で厳しいものとなった。
 
[北信越大会]
松本市は県庁所在地ではないのだが、競技場は「県営」で、「長野県営松本陸上競技場」と言った。
なんだか古色蒼然とした競技場で、トラックはアンツーカーでもない「土」。
特徴的なのは、フィニッシュ地点の先にも異様に広いスペースがあることだったが、後で知ったことには、それはこの競技場が「200m直走路」を有する国内最後の競技場だったことの名残だった。
[競技場の写真(松本市公式サイト。ページの一番下)]

ここでも1日目の最初は400mハードル予選から。参加者数が決まっている北信越大会では、予選は全て、6人ずつ5組に分かれ、各組3着+1名が準決勝進出となる。
今回は、ホームストレートにはいるまでは快調だった。しかし、「うん、これで予選はクリアしたな」と気が緩んでしまい、最終10台目で振り上げ足を引っ掛けてバランスを崩してしまった。
ただし、着順的には3番目以内だったから準決勝進出には問題ないはずだった。「準決勝はキッチリやるさ」と気持ちを切り替えていたころ結果の発表があって、私は「失格」と発表されてしまった。
ハードルを故意に倒したと判定されたようだが、これに怒らずにいられようか。さらに怒りを倍加させたのは、私の失格で予選通過ラインに繰り上がったのが(偶然だとは思うが)長野県の選手だったこと。「ホームタウンデシジョンだろう!ふざけるな」「きったねー!これがスポーツかよ」ちっ(怒った顔)等々、怒り狂った。
こんな私を監督のN江先生は見かねたのだろう、主催者に対して正式に抗議してくれた。陸上競技の抗議にはお金を払わなければならないことは、このとき初めて知った。
抗議の結果はあえなく「却下」。おそらく先生のポケットマネーから払っていただいたであろう「抗議料」は”ボッシュート”となってしまった。
ただ、不思議だったのは、それまでの「怒り」が潮が引くように収まってしまって、「あれは、自分の技術の無さと気の緩みが招いたこと」と冷静に反省できるようになったことである。
「監督の抗議」というものは、結果として実らなくても選手を落ち着かせる効果は結構あるんだね。
そういう経験から私は、プロ野球なんかで、監督が覆るはずのない判定に抗議しているのは、選手を落ち着かせたり奮い立たせたりする効果を狙っているんだと理解している。
なお、400mハードルの優勝は北陸大谷のF岡選手で、県高校記録を大きく更新し、当時では全国的にも注目される55秒0の好タイムだった。

2日目は400m。本校から3人も出ているから1人くらいは全国大会に出られるんじゃないか…なんて考えは甘かった
3人とも準決勝には進めたが、誰も決勝には進めなかった。中でも私の内容は悪くバッド(下向き矢印)、2人の先輩が51秒台の記録だったのに対して私は52秒2に留まった。
400mで優勝したのは、私が中学3年生の時の北陸三県大会の200mでブッちぎられたT中君であった。成和中から高志高校に進んでいたT中君も私と同じ2年生。
石川県大会の2年生優勝で喜んでいたら、あちらは北信越優勝。「ああ、どんどんブッちぎられていくなぁ」と彼我の差に唖然としたものだ。

宿に帰ると私の足の裏に異変が起きていた。
右か左かは忘れたが、親指の腹と拇指球にマメができていたのであるがく〜(落胆した顔)。3日目のリレーを控え厄介なことになったものだ。
とにかく、針で突いて水を抜き、皮がくっつくのを祈るしかない。不安のまま一夜を過ごした。

3日目の朝、なんとかマメは萎み水は抜けていた。しかし、歩くと接地時に痛みがあった。
しかし、何が助けになるか分からない。その日は朝から小雨が降っていた。
「トラックが軟弱になれば、接地の時にも足の裏に痛みを感じないかも知れない」と思った。

その雨の中、『国立競技場』への最後のチャンス、マイルリレー予選が始まった。
前日の結果から、県大会とは走順を変えて私は3走、N上さんが4走に入ることとなった。
思った通りトラックは軟弱で、走っているときには足裏に痛みは感じなかった。
予選、準決勝と、好調のN村さんが先行し、ショートスプリント専門のA谷さんが何とかつなぎ、私が順位を上げてN上さんが逃げ切る展開で決勝進出。
そして、決勝を前に本校にサプライズゲストが訪れる。順天堂大に進んでいたE先輩が同級のN村yさんとともに千葉県から駆けつけてくれたのである。
来ていただいただけでもモチベーションが急上昇するのに、少しでも疲労がとれるようにとマッサージまでしていただいたんだから、「結果」でお応えするしかないだろう。無駄足に終わらせては申し訳が立たない。
そのうち、女子走高跳でも好結果が生まれていた。
県大会でさえ5位だった2年生のY岡が、あれよあれよという間に自己記録を次々と更新し、1m55 で4位となり『国立競技場』への切符をつかんでいた。

マイルリレー決勝は、多くの大会でそうであるように大会の最終種目であった。
そのころには、降り続く雨でトラックは泥沼と化していた。
あまりの酷い状態に、通常は2走の第2コーナー(520m付近)でオープンレーンとするところを、少しでもインレーンの不利を軽減するために、1走の第4コーナー(320m付近)でオープンとする特別措置が取られた
この場合、第4コーナーにブレークラインを設ける必要があるし、スタートラインは(第1レーンを除き)通常の400m競走のラインより微妙に前方に引かなければならないから、陸上競技のルールに詳しい向きには「そんなラインが当日、急に引けるものなのか?」と疑問に思われるかも知れない。しかし、当時は800m競走が第4コーナー(320m付近)でオープンとなっていたため(これは評判が芳しくなく短期間で廃止された)その800m用のスタートライン及びブレークラインを流用できたのである。

スタートすると、今大会好調の1走のN村さんが快走を見せてトップで2走につないだ。気の早いことに『国立』が目に浮かんだが、さすがに北信越は甘くない。
ショートスプリント専門のA谷さんも頑張るが、前との差はさほど大きくないものの一気に8位まで順位を下げてしまう
「すまん」という表情でバトンを持ってくるA谷さんだったが、私は肯きながら「大丈夫」と目で声を掛け、超攻撃的に走り出した。
根拠はないが、不思議と自信があった。
前年、マイルリレーにデビューしたときに雨の中で好走した経験から「雨の中のマイルリレーは得意だ」というイメージが出来ていたからだろう。
走り出すと、やはり自分で自分を「速く」感じたし、実際、その時の私は速かったと思う。
バックストレートで2人捕らえたが、相手が立ち止まっているように思えるほど簡単に抜き去った。
足場の軟弱さを嫌ってその2人とも2〜3レーンを走っていたが、私は抜くために遠回りするのを嫌い、インを突いて最短距離で抜き去った。
1レーンが丸ごと空いていたのだからルール上も問題なかろう。案外と、足を取られたり滑ったりすることはなかったな。
そのまま第2曲走路を走り抜けてホームストレートに入ると、3位集団の3人が目の前だった。
調子がよかったのだろう、これだけ攻めて300m走ってきても私には余力十分だった。その一方、3位集団は牽制しているのか疲れているのかスピードが遅く、あっという間に追いついてしまい、私は減速を強いられた。
3位集団は横に広がっていて、行く手を遮る障害物に思えた。
走りながら「もっと上げられるのに、こいつら遅すぎる」と苛立つ。
そこで私が取った作戦は接触覚悟の「中央突破」だった。
接触でバトンを落とさないようにしっかり握り、「邪魔だぁ、そこをどかんかい」とばかりに掻き分けるように前に出た。私の右肘が他の走者に当たったように感じたが構うもんか。
こういうときに「性格の悪い人間」は強いよ。パンチ
ついに8位からの5人抜きで単独3位に浮上し、気合い十分の表情のN上さんにバトンを渡す。
「さあ、これで『国立』だ」と思ったが、スンナリそうならないのが北信越だ。
一時は先頭をもうかがう勢いで快走していたN上さんだったが、後方からヒタヒタと何チームも迫ってくる。やはり4走は強い選手が揃っている。
ホームストレート半ばからは、1位と8位だけが独り旅で、2〜7位が大混戦となった。
せめて『国立』切符が手にはいる6位までの混戦なら気が楽だったが、7位までだと気が気ではない。果たして、そのままフィニッシュラインに雪崩れ込むことになってしまった。
この大会では、写真判定装置は無かったものの、審判台からビデオ撮影をして着順判定の”参考にする”措置が取られていたのだが、後で聞いた話ではこの混戦では1つの身体から脚が12本出ているような格好だったという。
とにかく、結果発表を聞くしかなかった。
1着が松本県ケ丘(あがたがおか)なのはハッキリしていたが、2着、3着、、、ついには5着まで発表されても本校の名はアナウンスされなかった。
そして運命の「6着…」のアナウンス。本校のテントは全員固唾を呑んで耳を傾けた。次に聞こえた声は「大聖寺高校」だった。
次の瞬間沸き返るテント内。
最終種目の6位。まさに最後の最後に獲得した『国立』への切符だった。

わざわざ駆けつけてくれ、マッサージまでしてくれたE先輩にも喜んでいただいた。
7位と僅差の6位。何が欠けても『国立』は無かったと思う。
私があそこで強引に前に出て行った判断も正解だったわけだ。
結果的には決勝で順位を下げてしまったA谷さんは、この日の決勝レースの話になると、いつも申し訳なさそうな顔をしていたけど、
A谷さんにとって、この大会での出番がマイルリレーだけと決まったその日から、本来のショートスプリントを捨ててロングスプリント系の練習に打ち込んでいたことは部員はみんな知っていたから、その力走を称えこそすれ、責める者は誰もいない。
その努力がなかったら、あの最後の混戦にも、或いは決勝レースそのものにも加われなかったことは明らかである。
[国立競技場]
7月末。ついに、東京へ向かう日がやってきた。本校の陣容はマイルリレーメンバー4人と走高跳のY岡、そしてリレーのサブとして2年生のT山が帯同した(エントリー上はもう1人、3年生の人が入っていたが辞退)
T山は当時の部としては珍しく、中学時代には目立った実績のない中距離選手だったが、飄々としたキャラで黙々と練習するタイプだった。この時点ではマイルリレーの実質的な戦力ではなかったが、この「帯同」が刺激になったのか、翌シーズンのマイルリレーでは十分な戦力となる。その意味で、彼を帯同させたのはよいことだったと言えるだろう。
いよいよ開会式。幼稚園児の時に「東京オリンピック」があった世代としては、感動的である。
トラックに足を踏み入れると、意外にスタンドが小さく感じたのは、スタンド上部にある聖火台等の実際の大きさを知らないから遠近感が掴めなかったというのが実際だろう。後でバックスタンドの聖火台近くに行き、フィールドを見下ろしたときの「小ささ」には、改めて競技場の巨大さを認識したものだ。
インターハイの来賓としては、ときの皇太子殿下が臨席されるのが慣例で今回もそうだったが、東京開催ということやご自身が学習院高等科1年生になられたということで、今回は浩宮徳仁親王殿下(現 皇太子殿下)が初めて同席された。
開会式が”薄暮”の時間帯に行われたのは異例だったが、これは当時の東京は大気汚染が酷く、真夏の日中には「光化学スモッグ」による健康被害が数多く発生していたためだった。これも「時代」を感じさせることだねぇ。
さて、競技である。
1975年のこの大会は、トラック競技がタータントラックで行われた最初のインターハイである。
そのためか、特に短距離種目のレベルは例年より高かったように思えたが、最大の注目は男子400mだったと言えるだろう。
これは、私の専門種目だからということではなく、この時代の競技関係者は皆、注目していたのではないだろうか。
主役は、岡山工の長尾隆史、相模台工の臼井淳一の両選手だった。長尾選手は筑波大に進み、後年、400mハードルで日本人初の49秒台を記録したし、一方、稀代のオールラウンダー臼井選手は順天堂大に進み、短距離跳躍種目のほぼ全てで日本代表クラスの力を発揮し、ロサンゼルス五輪では走幅跳で8位に入賞する。
400m決勝を前に、スタンドは熱気に包まれていた。私はT山とともにフィニッシュライン近く、走幅跳の砂場を正面に見る位置で観戦した。
あたかも軽々と走っているような長尾選手に対して力感溢れるストライド走法の臼井選手という感じだったが、結果は 47秒31 の当時としては驚異的な高校新記録をマークした長尾選手の圧勝、しかし、2位の臼井選手も48秒22の高校新記録だった。
当時の記録速報は、現在のような赤外線ビームによるものではなく、写真判定室からの連絡を受けた補助員が「只今の1着」という表示板に手動で一桁ずつ表示していくprimitiveな方式だったが、「7」という数字が出て沸き、「3」が表示されると大きなどよめきと歓声が沸き起こったのを鮮明に覚えている。
今のように、たちどころにタイムが分かるのも悪くないが、こういう「タメ」があるのもワクワクするね。
技術的な話になるが、このときの「軽々と走っている」ように見えた長尾選手の走法は、タータントラックの反発力を活かした効率的な走法で、現在では世界の主流となっている走法を先取りした極めて先進的なものと言えるだろう。ただ残念なのは、私がそのことに気がついたのが、今からたった1年ほど前だということだ。

そして、いよいよ私達の出番。マイルリレー予選である。
本校は、なんと長尾選手を擁する岡山工と同組だった。招集所では当然のことながら近くに長尾選手がいる。ほとんどサインもらいたい気分だったね(凄いミーハー)。
結果は8チーム中5着で予選落ち。タイムも、この年は7月に行われた県選手権でマークした 3分30秒6 のチーム記録にも及ばなかった。
私にバトンが渡った時点では、前も後ろもかなり離れていて、1人で淡々とトラックを1周して終わった感じだった。
[第4コーナー、織田ポール付近を走る私]
'75インターハイ
しかし、後にも先にもこの1度だけの『国立』の経験は、私にとって大きいものだったと思う。
今は、地元の小学生に『国立』を経験させようとしている私だが、高校時代のこの経験故、何としてでも子供達にも『国立』で走ってもらいたいな…と思いは強い。
(つづく)
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posted by Yujiri@Kaga at 08:01| Comment(0) | TrackBack(0) | Profile | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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