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2010年05月31日

自己紹介(その8〜高校2年 1/3)

高校1年のシーズン後半に、マイルリレーで頭角を現した私は、冬季練習で筋力、筋持久力トレーニングに注力してパワーアップに努め、それが結実した高校2年の春には、上級生に互して戦えるまでの競技力になっていた。
特に400mについては、リレーメンバーがそのまま個人種目のライバルとなるわけで、否応なくモチベーションが上がる環境になっていたことが大きいだろう。
私は、そうした環境の中から自らの競技力レベルを日常的に肌で感じ、そして自信を深めていった。
 
[県大会]
1975年の県大会は、個人は400mと400mハードル、リレーでは4×400mRはもちろん 4×100mR にも出場することとなった。
4×100mRの本校の4走は、昨年の県大会はE先輩が務めたことは既に述べたが、新人戦では三段跳が専門のT島さんが走っていた。
しかし、T島さんは故障を抱えていたので個人種目に専念することとなり、私にお鉢が回ってきたのだ。
ショートスプリントはやや苦手だが、スタンディングからの加速なら他校の4走にも太刀打ちできる自信はあったし、それよりなによりE先輩と同じポジションに立てたことが嬉しかったね。同時に3走が小学校時代から同級の”O”に代わったのもやりやすかった(1-2走は前年と不動)。

プログラム順に行こう。
まず1日目は、例によって400mハードルからだ。
3台目までしか練習できない環境は相変わらずだったが、ハードリングもそれなりに上手くなったし、走力にも自信がついてきて、あわよくば北陸大谷のF岡選手に一泡吹かせてやろうかと意気込んで臨んだ私だったが、3台目で「振り上げ足」をハードルに引っ掛けて転倒寸前になる大失敗ふらふらほとんど止まってしまったからその時点では最下位に落ちていただろうが、必死に追いかけて最後は3位にまで順位を上げた。第三者的に冷静に振り返れば、失敗した後のレースはスピード、ハードリングとも満足できるもので「よく3位にまで上げた」という言い方もできようが、新人戦より順位も記録も下げたことで悔し泣きしてしまったもうやだ〜(悲しい顔)今思えば、北信越大会には進出できるんだし、F岡選手に負けるのは半分織り込み済みだし、せいぜい対校得点が目論見より1点減ったくらいのものなんだから、そう大騒ぎするほどのことでもないと思うが、「俺の実力はこんなもんじゃないんだ」とアピールしたい気持ちが含まれていたように思う。そうでもしないと落ち込んじゃうしね。
その効果かどうか、意外に「切り替え」は早かった。そのあたりも中学時代から成長したということだろうか。
その日の競技が終わるころには「400mで勝ちゃあいいんだろう」「400mで勝つのは俺」と超強気発言手(グー)を連発し始めた。周囲には同じ400mに出場しライバルでもある上級生もいたんだけど、構わず平気で吹いていた。
うーん、これでは「成長」というより性格が悪くなっただけかもな…。
当時の大聖寺高校は、県大会の時は金沢市石引にある大学病院前の旅館に泊まっていたんだけど、この性格の悪い2年生のために、その夜は部全体がピリピリしていた気がする。

2日目は、その400mと4×100mR。プログラムでは、400mの予選−準決勝−決勝のインターバルに4×100mRの予選と決勝が組まれていた。
400m予選。-----これは流し。55秒台で1着だったが、余裕を見せつけようとして、わざと「よそ見」したりもした(競技マナー最悪だね)。
4×100mR予選。-----初の4走で気持ちは昂ぶったが、これも先頭でバトンを受けたときには3位以下が大きく離れていたので、北陸大谷の4走、F岡選手と2人で流し(1着)。
400m準決勝。-----ここから本気モードに切り替えた。実際にはここも流してよかったんだけど、同じ組に2年生多かったことでスイッチが入ってしまい、最初から飛ばした結果が2着を2秒以上ブッちぎって1着。これが若さかな?レーンシード制がない時代に準決で2秒もブッちぎるなんて馬鹿としか言いようがないけど。
結局、全体では本校のN上さんに次ぐ2番目のタイム(52秒6)で決勝に進んだ。
次は4×100mR決勝。本校は上位の力を持ちながら前回大会ではバトンミス、新人戦では6位に終わっているから、今回は何とか順位を押し上げようと意気込んでいた。
結果は、2位でバトンを受け、各校のエース級が揃う中でそのまま順位をキープし、小松工に次ぐ2着!
我ながらショートスプリントでも意外にやれるな…と思ったが、私なんぞが4走で2位なら、E先輩が4走だった昨年、普通にバトンが渡っていれば…なんてことをついつい思ってしまう。

そしていよいよ400m決勝。本校はマイルリレーメンバーの3人で1〜3位独占を期待されていた。それは同時に、この大会の100mで既に優勝し、最終日の200mも優勝確実と考えられていた中島高校のY選手の短距離三冠を阻止することも意味していた。
前述のとおりレーンシードのルールがなかったため、抽選によって割り当てられたレーンが、準決勝トップタイムのN上さんが8レーン、2位の私が7レーンという現在では考えられない状況がく〜(落胆した顔)になってしまい、これには監督さんはしまったと思ったようだが、私にはチャンスとも言えた。最大のライバルをペースメーカーにして走れることになったわけだ。個人種目の同一レースでトラックに立った以上、先輩も後輩もないだろう。
スタートすると、N上さんだけを見て走った。本来中距離選手であるN上さんはペース配分が上手いから着いていけば間違いないと計算し、300mまで並走して直線でスプリント勝負する作戦だ。
トラック上にあるリレーゾーンやスタートラインを目印に冷静に差を測っていたが、第3コーナーのリレーゾーンのラインで並んでいることを確認したとき、「もらった」と思った。
直線に出ると、予定通り(?)N上さんと私が先頭に並んでいた。そしてこれまた予定通りのスプリント勝負に出たが、N上さんもさすがになかなか振り切れない。しかし最後はフィニッシュライン手前で際どくかわし、52秒3 の同タイムながら私が1位でフィニッシュした。
このレースのフィニッシュ。7レーンが私。]
'75県大会400m決勝
中学時代に狙いながら果たせなかった悲願とも言うべき全県レベルでの優勝を2年生で達成できたことは格別だった。
前日からの超強気発言も、そのとおり実行してみせればお咎め無しだった。優勝しなかったらボロカスだっただろうけど(笑)
ただ、残念ながら期待された本校の上位独占はならず、中島高校のY選手が3位に食い込み、N村さんは4位だった。
本校は、Y選手の三冠を阻止したが、1〜3位独占はY選手に逆に阻止された格好だった。

最終の3日目、私はマイルリレーだけのエントリーだった。
リレーのオーダーは、前日の結果から走順を変えることとなり、私が4走、N上さんが3走となった。
400mの1、2、4位を擁していれば勝って当然と思われるかも知れないが、当日の個人種目(200mや800m)の決勝との絡みで、ことはそう単純ではない。
個人種目の決勝に出た主力選手が疲れて満足に走れなかったり、逆に準決勝敗退レベルの選手が元気一杯に好走したりするからだ。
本校も、N上さんが800m、N村さんが200mの決勝を走っていたから油断はできない。加えて、当日は雨という波乱要因があった。
全天候性トラックでない当時、スタートから520mまでセパレートレーンで走るマイルリレーで、雨の日に1レーンに当たったらその時点で「ご愁傷様」である。
始まってみると、幸い「1レーン」ではなかったものの、新人戦と同じく小松高校が食い下がってきてなかなか振り切れない場面があって苦戦した。
しかし、800m決勝の疲れをおしてN上さんが激走してトップでバトンを持ってきてくれ、それを受けた私が逃げ切って苦しみながらも優勝できた。
前年の県選手権と同じく雨中のマイルリレーとなり、私の中ではマイルリレーは雨の中で泥んこでやるものというイメージが出来てしまったね。
しかし、私としては、雨を含んだ泥んこのトラックについては、(ユニフォームが汚れて母が嫌な顔をするという点を除けば)不思議と悪いイメージはなかった。
無論、絶対的なスピードは通常より遅くなっているのだろうが、他の選手との相対比較としては、むしろ「速く」なっている印象があったからだ。
これは思い込みだったのかも知れない。しかし、雨でもマイナス思考に陥らないようになったことは、後から思えば、北信越大会に向けては大きなことだったと言えそうである。
[北陸三県大会]
インターハイの最終予選となる北信越高校選手権の前に、北陸三県大会(北信越国体の前身)に参加した。
これは高体連主催の大会ではなく、高校から一般社会人までが参加する球技や水泳も含め三県の代表が競う総合競技大会の一環である
会場は、福井県営陸上競技場。私は400mハードルとマイルリレーに出場した。
400mには、石川県からは私ではなく大学生の選手が出場した。
400mハードルは、県大会のような大失敗はなく数字的には自己ベストだったが、ハードルに足が合わないケースが多く満足できなかった。
しかし、マイルリレーに起用されることになったのは嬉しかったるんるん
大学生より力は劣るが、若手に経験させようという配慮だったのかも知れない。
オーダーは、Y内選手(金沢大)−私−K前選手(教員=現石川中体連会長)−M本選手(教員)。
特にM本選手は、東京教育大(現 筑波大)で活躍された後、鹿西高の教員になったばかりで、日本選手権や国体で優勝するほどの全国的に見てもバリバリの一流選手。
400mの石川県記録保持者であるのはもちろん、当時の石川県では、400mで50秒を切っていたのは歴代でもM本選手だけだったから、同じチームで走れるとは光栄だったが、それだけに、足を引っ張っては大変だというプレッシャーも凄かった。
マイルリレーの2走の経験は後にも先にもこのときだけだったが、やはり気をつけないといけないのはブレークライン直後の接触。
特に今回は大学、社会人相手だからパワー負けだけはしないようにと思って走った。
さすがにトップを切ることはできなかったが、先頭を射程距離においてつなぐことができた。
「この差なら、M本さんが逆転してくれるだろう」と期待した。
果たして期待どおりの展開となって、マイルリレーは石川県が優勝。他の3人の方から「よく走ったな」と声を掛けられ肩を叩かれた。
当時私はは16歳。他の人から見ればカワイイものだったのだろうね(さすがにこういう人達の前では、いつもの「減らず口」も叩けなかったし)
記録は3分25秒0。今では大聖寺高校のクラブレコードにも遠く及ばない記録だが、これは当時の石川県新記録だった。
(3分19秒台でインターハイに優勝できた時代である)
他の選手の力による部分が大きいとはいえ、これで私も「石川県記録保持者」のハシクレである。
これで弾みをつけて、自信満々、北信越高校選手権に臨むこととなる。
(つづく)
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posted by Yujiri@Kaga at 08:01| Comment(0) | TrackBack(0) | Profile | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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