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2010年05月27日

自己紹介(その7〜高校1年後半)

入学前の「運動不足」が祟って、出足で躓いた高校での競技生活だったが、
夏になってようやく動ける身体になってきた私は、
いよいよロングスプリントの華、マイルリレー(4×400mR)にデビューする。
 
[マイルリレーデビュー]
1974年当時は、8月に石川県選手権が行われていた。
私は個人の400mハードルと4×400mリレー(マイルリレー)に出場することとなった。
400mハードルの結果はよくなかった。
(というより、出たのは覚えているが競技成績は覚えていない)
それについては、あまり落胆していなかった。まだ初心者の域を出ない私が、社会人や大学生も参加する大会で結果が残せるはずがないとサバサバしたものだった。
それより、ロングスプリンターの力の見せ所であるマイルリレーに出られることでモチベーションが高まっていた。

マイルリレーが行われる大会2日目、会場の小松末広競技場は厚い雲に覆われ、蒸し暑い日になっていた。
入学前の3月から5か月の練習と400mハードルで曲がりなりにもレースをこなしてきた自信で「県中学大会」のトラウマも消え、既に400mの距離に対する不安はなくなっていた。
しかも、この日の私はリレーの予選、決勝だけだから、「回復力」が問題となることもなさそうだ。
3年生が引退した大聖寺高校のリレーメンバーは、1走にN村さん、2走にショートスプリントが専門のA谷さん、私が3走に入り、4走には中距離タイプで春の県大会の400mで2位に入っていたN上さん(現錦城中教頭)というオーダーだった。

予選は難無く通過して、競技会の最終種目となるマイルリレー決勝を待つ。
しかし、予選終了後から雨が降り出し、決勝レースは雨の中、ぬかるんだトラックを走ることになった
(まあ、これも当時の陸上競技者なら日常茶飯事だったが、こういうのを母は「泥汚れが落ちない(怒)」として嫌がっていた。)
さあレースが始まった。
序盤から唯一の実業団チームの倉庫精練がリードして金沢大、日体大(県出身者で構成したチーム)が続き、本校をはじめとする高校チームが追いかけるという、”長幼の序”に従った展開となった。しかし、その”序”は3走にバトンが渡ると崩壊する。崩壊させたのは誰あろう私である。
4位でバトンを受けると、ペースなど考えずに飛ばし、先行する大学2チームを抜いて2位に浮上し、バトンを4走につないだのである。
さすがに当時の倉庫精練は強く、本校の優勝はならなかったが、大学チームに再逆転されることもなく2位をキープしてフィニッシュした。
「どうだ、見たか!」手(グー)という表情で待機場所のテントに戻る私。そこそこの走りは期待されていたようだが、少し前まで中学生だった1年坊主が、まさか大学生2人を抜くとは(私自身も含め)誰も思っていなかったようで、SURPRISE の文字が空中に漂っているようだった。N島も「大学を抜くなんて、スゲーがいや」と肩を叩く(N島に叩かれると痛いんだよね)
私としては、最高のマイルリレーデビューとなったし、この時点で監督さんも1年後のインターハイにマイルリレーで出場することに手応えを得たと思う。
また、その時は想像もしなかったのだが、雨の中のレースで力を出せたということが、翌年、最も大事な場面でモノを言うことになる
[対校ポイント]
9月になると新人戦。
当時の高校新人は、七尾城山競技場で行われる慣例だった。
慣例といえば、当時の本校は、小丸山小学校に近いお寺(住職が監督さんの知り合いらしい)に泊まるのもその”慣例”だった。

私は、県選手権のリレーでは活躍できたものの、対校得点を稼いで初めて「部」に貢献したことになると考えていたから、新人戦では個人種目で入賞したいと思っていたが、「1種目各校2人まで」「1人の選手は2種目まで」の制限の中、私はまたしても400mのエントリーから外され、個人は400mハードルだけだった
400mハードルについては、北陸大谷のF岡選手がずば抜けていたから、私は「2位」を求められていた。
三段跳のT島さんあたりから「2位は獲れ」とプレッシャーをかけられていたが、県選手権で上手く行かなかった後、1か月の間でかなり感じがつかめていたし、なにより走力に自信がついたことが大きかった。
結果は予定通り(?)2位。初の対抗ポイント(当時は2位=5点)獲得は嬉しかった。
しかし400mに出られなかったのは残念だった。
結果的に400mは、N上さんとN村さんで本校のワンツーフィニッシュだったが、3位に他校の1年生が入ったのが悔しかったな。
まあ仕方がない。そのストレスはトラックの上で爆発させよう。
その舞台は、当然マイルリレーである。
この大会は2日間大会で日程が過密。200m、400m、800mの決勝は全て2日目にあって、本校も含め各校ともマイルリレーの主力選手は個人種目の決勝を走るなどして疲弊しているものだが、私だけは1日目の早々に400mハードル決勝が終わり休養充分だったから、「ここは俺が活躍しなければ」と思っていた。
大会最終種目のマイルリレーがスタートすると、やはり本校の1−2走には疲れが見えて、小松高校に先行を許す展開となり、3走の私は2位でバトンを受ける。しかし、先頭で受けてスタコラ逃げるより、抜いた方がインパクトがあるから、これは美味しい巡り合わせと考えるプラス思考になっていた。
県選手権で大学生を抜いたんだから高校生くらい抜けるという自信があったし、実際にあっさり抜いちゃった。
本来であれば、先頭に立った後は、4走のN上さんを信頼して、無理をせず順位キープの「安全策」の走りでもよいところだが、N上さんはこの日400mと800mの決勝を走って(これは超ハードだね)疲れてるから、体力が残っている私が可能な限りリードを稼がなければならないと考え、トップに立った後も「安全策」などと緩めることはせず攻めの走りを続けて、セーフティリードにしてバトンをつなぐ。
そして当然のように、そのまま逃げ切ったN上さんだったが、フィニッシュ後はバッタリ倒れ込んだ。タフでなるN上さんのこんなところは、後にも先にもこのときしか見たことがない。
「安全策」を取っていたらかえって危険だったなと改めて思った。
その意味では、レース展開の読みも当たった満足なレースだった手(チョキ)
ただ非常に残念だったのは、男子の総合優勝争いでは北陸大谷に1点差で敗れてしまったことだった。
「タラレバ」を言えばキリがないからやめておくが、かえすがえす残念だった。
ただ、マイルリレーを前に7点差がついていたためか、北陸大谷はマイルリレー決勝を棄権していたと記憶している。
それが6点差以内だったら、北陸大谷も棄権せずに何点か稼いでいただろうから、点差ほどには惜しくはなかったのかも知れない。

かくして、「大聖寺といえばマイルリレー」ということを県下に強烈に印象づけてトラックシーズンを終えることになったが、
次の年は、本校のマイルリレーメンバー同士が個人の400mで熱い戦いを繰り広げることになる。
(つづく)
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posted by Yujiri@Kaga at 08:06| Comment(0) | TrackBack(0) | Profile | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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