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2010年05月24日

自己紹介(その6〜高校1年前半)

自己の論理を押し通して大聖寺高校に入学した私は、個性強烈な同僚、先輩に揉まれながら、初めての「陸上競技部」生活を始める。
しかし、初めから順風満帆-----とは行かなかった。
 
[獲らぬ狸の皮算用]
念願かなって大聖寺高校陸上競技部に入部した私だが、入部当初は全く走れる身体ではなかったバッド(下向き矢印)
今のように民間のスポーツジムがあるわけでもなかったし、陸上部がなかった山代中では、陸上部のある学校のように後輩の練習に飛び入りで参加するといったことが出来なかったから、完全な運動不足の状態だった。
そんな私に、監督のN江先生(現石川陸協理事長)から言い渡された最初の練習メニューは、途中ストレッチ体操を入れながら延々とグラウンド外周をjogすることだった。
やってみると、当然の如く激しい筋肉痛に襲われる。とくに背筋から大臀筋、ハムストリング、そして脹ら脛と、身体の後ろ側全体が痛かったのは記憶に鮮明だ。

その筋肉痛もさすがに解消されたころ、4×100mRの練習で1走をやれと言われる。
E先輩を4走に擁し、県大会の優勝候補であり全国大会出場を狙うリレーチームに、調子の戻らない1年生、ましてスタートが苦手なロングスプリンターの私に「1走」とは不思議な気がしたが、本来の1走であるN村さんが、その日は練習を休んでいたからという理由を聞いて変に納得したりもした。
なにより、間接的とはいえ私がつないだバトンがE先輩の手に渡ると思うと嬉しかった。
練習では代役を務めたものの実際にはレギュラーメンバーには程遠かった私だが、5月末の県大会では、2年生のT島さんとともに補欠として4×100mRのエントリーメンバーには加えてもらえることになったわーい(嬉しい顔)
ラッキーだと思った。全国大会出場の可能性が高いリレーチームであれば、補欠もそれに伴って福岡県で開かれる全国大会に行き、開会式の入場行進くらいはさせてもらえるという「獲らぬ狸の皮算用」も正直あった。
そういうことだから、リレー練習の代役などおやすい御用である。

県大会の個人種目エントリーでは、私は200mと400mハードルに出場することになった。
100mより400mが得意な私だったが、4×400mRではエントリーメンバーから漏れていた。
やや不満だったのは、個人の400mに出場できないことだったが、今の調子では好成績は望めないばかりか、うっかりすると前年の中学県大会の二の舞を演じる不安も心の片隅にあったから大きなことは言えなかった。
未知の種目である400mハードルでは練習には苦労した
今の部員と違って学校のグラウンドで練習していたからハードルは3台目まで置くのがやっとだった。3台目まででスタートから115m。これが限界だった----------本番では10台もあるのに…。
スタートから45m地点にある第1ハードルがどうしても逆足になってしまうことも悩みの種だった。
仕方がないからスターティングブロックのセットをそれまでの「右足を前に」から左右逆にしたのもこの時期だ。ただ、やってみると意外にそれがしっくり来るものだから、以後はハードル種目以外でも「左足を前に」セットするようになった。
そして、いよいよ県大会を迎える。
[凍り付いた時間]
県大会の日がやってきた。
当時の400mハードルは、タータントラックに目印が書いてある今と違ってハードルの設置作業が大変だったから、いつも”いの一番”に予選が行われていて、
参加者が競技場に着いた頃には、既にハードルがセットしてあるというのが、そのころの大会のいつもの光景だった。
或いは、前日のうちにセットしてあったのかも知れない。
この大会も第1日目のトラック最初の種目が400mハードルの予選だった。

予選は単純明快に2組4着取り。しかし、記録会の数も今とは比較にならないほど少なかった当時、持ちタイムによるシードはほとんど機能しないはずなのに、組み分けの不均等を調整する意味での「タイム取り」がないのは現在のスタンダードからは些か乱暴に思えるが、当時はそんなものだったようだ。
ともあれ、1組に出場した私は62秒もかかって5着=予選落ちだった。
内容的に見ると4台目以降のハードルは私にとって未知の領域だったが下手なハードリングながらなんとかクリアできた。意外だったのは、8台のハードルが横一線に並ぶ9台目と10台目がやけに低く感じたことだった。もちろんそれは目の錯覚で、1台目から全てのハードルが 91.4cm の高さであることは言うまでもないのだが、脚が疲労している最後の2台が目の錯覚にせよ低く見えたのは、その時点でも脚に力が残っていたということだと前向きに考えた。
しかし、予選全体のタイムを知ると悔しくなった。私のタイムは全体の8番目以内だったという。つまり、「タイム取り」があったら私は決勝に進出できた計算になるが、ルールはルール。どうなるものでもなかった。

2日目は、4×100mRがある。私は当然のように(?)補欠のままだった。そしてその予選。
本校はらくらく通過だった。
4走を務めたE先輩がバトンを受けたときには既に独走。E先輩は「流し」よりゆったりとした走り方で、余裕さえ示しながら悠々1着でフィニッシュした。
「なんて強いんだ。これなら決勝も楽勝だろう」と思った。ましてや、県大会では北信越大会の出場権を得られる6位以内にさえ入れば全国大会への道が続くことに変わりはないのだから、このチームが7位以下に終わり全国大会への道が金沢の地で早々に途切れることなどこの時点で誰が予想しただろうか。

そして運命の決勝レース。
私は、E先輩を応援しようと第4コーナーに陣取り、スタートを待った。
そしてピストルが鳴る。
1走のN村さんの快調な走りを追って私の目線は右から左に移動する。
しかし、2走のA谷さんがスタートを切り10mほど走ったところで、私の目線はピタリと止まってしまった。
バトンが落ちていた。
それでもN村さんはバトンを拾い上げてA谷さんに渡し、A谷さんは諦めずにレースを続行する。
その間、時間にして数秒のことだったと思うが、私には、いや、本校の全部員にとって時間が凍り付き、何分にも何十分にも感じられたはずだ。
しかし、バトンをつないでフィニッシュさえしておけば、どんなに遅れようと他校のうち2校がオーバーゾーン等で失格すれば6位に繰り上がって全国へのチャンスは残る。
私は涙目になりながら、先輩達の走りを見守り声援を送ったし、リレーメンバーの人達は僅かな可能性を信じて立派に走り切った。
正式結果は7着だった。能登地区の某高校がブルーゾーン内でバトンパスを開始してしまう「ショートゾーン」を犯したという。しかし、失格はその1校だけだった。
かくして、私の「獲らぬ狸の皮算用」はあっけなくご破算となった。
私の「皮算用」が不純だったのがいけなかったのかなぁ…と罪悪感にもとらわれたものだもうやだ〜(悲しい顔)

3日目は200mに出場。これは酷いパフォーマンスだった。
ほぼ中学2年の時の加賀地区新人の時くらいのタイムだったと思うが、これでは高校では箸にも棒にもかからないふらふら
やはり、まだまだ入学前の「運動不足」状態から脱却できていないと感じたものだ。

この大会では、個人で北信越大会の出場権を得た部員は何人もいたし、なかでもE先輩とT島さんはこのまま北信越予選もクリアして福岡県久留米市で開かれる全国大会にも出場されることとなるのだが、
リレーに端を発した悪い流れがその後に出場する部員の焦りを誘発してよい結果が出ることは少なく、本校としては暗いムードのままこの年の県大会を終えることとなってしまった。
(つづく)
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posted by Yujiri@Kaga at 08:04| Comment(8) | TrackBack(0) | Profile | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
シビレましたmm

プロフィールで綴っておられる重要な場面を間近で目撃させて頂いた者です。
私はブログオーナー様の2学年下です。
ですので、中学校でも高校でも、丁度新入生のぺーぺーで先輩の荷物持ちか砂かき補助員をしていましたので、綴られている場面を強い印象で残しています。
しかも「自己紹介(その4)」に登場する北三の200mを辞退した県大会上位選手のT野さんは中学の先輩、北三本番、並びに北信越大会でブッちぎられたというT中さんとは、大学時代に思わぬ出会いをし、面識を持つようになりました。
私の中でT中利憲(「としなり」)さんは、北三の100mを向かい風の中、石川県大会で11″4を連発(放送陸上では追参/O谷さんは11″5でしたね)していた輪島・松陵中学のS口さん(11″9で3位)以下をブッちぎって優勝、その年秋の日本ジュニア陸上準決勝で中学生が史上初めて11秒を切ったレース(広島の平石選手)に同走し11″2をマーク、決勝でも5位に入った怪物。ご出身の高志高校は「こしこうこう」と読むと教えて頂きました。筑波大に進まれましたが、故障されて人生を考え直され、出会った時は成城大学で走りを嗜んでおられました(走りには往年の面影はなく…[涙])。お人柄は、最近の人で言うと料理の鉄人に出て来そうな、どこか芸術家のような雰囲気をもっておられた方でした。大学卒業後は地元福井に戻っておられました。
順番が前後しますが、T野さんは一人っ子で、とにかくカッコイー人でした。いつもミズノの4本ピン赤のカンガルー皮スパイク。当時の中学生として最高のものを身に付け、勉強も出来、2年生にして既に11秒台をマークして県でナンバー2。しかし、3年生になってからは(…と言うか、間近では3年生になられたT野さんしか知りませんが、同じ部に姉がいたので、2年生時の武勇談は既に耳に入っていました…)、部活よりは勉強中心の生活をされていたように思います。県大会も、連日徹夜の勉強をされていたようで体調は最悪。100mで勝てなかったこともあり、200mは、ほとんど府抜けた走りになってしまい、確か5番だったと記憶しています。予選でトップタイム通過、持ちタイムも24″1で、前年の土谷選手と金沢市の大会記録を保持していました。4番までに入ると北三の候補となってしまうため、テントに帰って来られた時「あ〜ぁ5番やった」と言いながら〔予定通り〕って顔に書いてあったような、ホッとしたというかサバサバした表情をされてました。近年、お父様を亡くされ、新聞に遺族挨拶を掲載された折、どこかの銀行のおエライさんになっておられるとか…と、昔の仲間から聞きました。

あと、「自己紹介(その11)」でのインターハイ県大会のマイルリレー予選ですが、アンカーでバトンを受けられた時は3番ではなかったですか?何故かというと、あの時、3組2着+2の2で拾われた(組では3着だった)高校の1年坊主だった私は、先輩のアンカーに2位でバトンが渡りながらも「後ろに大聖寺がいる〜終わりかも…」と思った記憶とアンカーを走ったA井先輩が、試合翌日の反省会で「オレもイチロク(の予選で)で後からY尻が来ると思ったら生きた心地せんかったゾイやぁ」と話され、部員一同納得という面持ちで聞いた記憶があるのですが。
あの年の石川県勢は、アゴの大きな2人の大物(寺井と向陽、仲良く200mでIH〜日体)、400はY尻さんで中距離はいずれかの種目で北三中学を制したK内さんと言われていましたが、K内さんは北信越突破ならず、今は七尾東雲で指導されているS口さんが800mで決勝に進み、果敢に走るも入賞ならず、レース後号泣されてたと、北信越に行かれた先輩たちから聞き、その壁の厚さに驚いたものでした。
先輩の荷物持ちをしながら、召集所でお見かけしたY尻さんは、長髪で静かに集中されていて眠狂四郎のような(失礼)凄味を感じました。

ブログを拝見して分かりましたが、そのルーツはE指さんだったのですね。
順大時代、9種目ならトップクラスと言われた抜群の]運動センスで、教員になられて後、県選手権で、あのM本彰先生に100mで勝たれた時には脱帽…でした。
余談ですが、向陽のY田さんは京都で高校教員になられ、丹後地区からインターハイ優勝者を数人、またアトランタオリンピック女子5000m4位の志水選手を育てられたそうです。

砂かき補助員だった私は、2年かかって何とか5種競技で試合ができるようになり、大聖寺での同学年では、錦城中出身のエリートN田君と顔見知りになりました。大学でも時々試合で見かけては言葉を交わす間柄でした。地元で教員になったと思いますが、元気なんでしょうか。

長々と失礼しました。
とにかくシビれました。
今後のご活躍をお祈りしています。
Posted by 野田桜 at 2012年01月02日 09:14
>野田桜さん
現役時代の私を、覚えていてくださる方がいて感激しています。

T野君のミズノ(Mライン時代)のオレンジ色の4本ピンスパイクは、よく覚えています。
当時はカッコイイと思いました。
しかし、見るからに賢そうな人でしたよ。

貴校S高のロングスプリントで活躍されたA井君は、ローリングの大きい根性走りだった印象があります。
女子800mで活躍されていたA木さんも印象に残ってますがねw(実はそっちの方が?)。

4x400mR予選の件は、私の記憶違いかもしれません。
決勝は8mm映像があるのですが、予選は映像がなくて実はうろ覚えです。

T中君については、福井県でマラソンの大南選手を受け入れている企業の社長さん同姓同名なので、同一人物なのかな…と思っているのですが、情報ございませんですかね?

N田君は、しばらく他競技の顧問をしていましたが、今は山代中の陸上部顧問になっています。

年初のエントリーにもありますが、指導現場に身を置くのも今年で最後にしようかとも思っていますが、お時間がありましたら小学生の競技会でも観戦にお越しください。

またよろしくお願いします。
ps---
ひょっとして、海外(ヨーロッパ方面)ご在住でしょうか?
だとしたら、あまり気軽に石川県の競技会は観戦できませんね。
Posted by Yujiri at 2012年01月02日 14:41
Y尻様

お返事を頂けて私も感激ですmm

最後の方から行きますと、ご指摘の通り、ヨーロッパ在住です。どこで、どう間違ったのか、永遠の都で歴史の研究職をしています。余談ついでに、こちらは金髪のおねーちゃんも多々見かけますが、北ドイツ、北欧系以外は染髪さんが多く、帽子を替える感覚なのかな?という感じがします。馴れてしまうど、外側はともかくって感じになって、今では気になることもなくなってしまいました(老化現象の入り口かもしれませんが…)。こっちではジョギングおじさんをしています。中々自分の思考にハマったスポーツ店がなく、ようやく見つけたお気に入りのスポーツ店にはイタリアのフレッチャ・アッズーロ(青い矢)P.メンネアのサイン入り著書が売られてました。「彼はローマ大学だったでしょ?」って店主に聞いたら「すぐ近くに住んでる。時々来るよ。」ということでしたが、今のところ、お目に掛ったことはありません。新聞かなんかで見かけた最近の容貌はザッケローニさんに近い感じです(つまり太っちゃって)。

N田君は、順大時代、いっこ上の同郷某先輩から理不尽な目に遭わされていたようです。そんなことでブレないところが彼の大物たるゆえんで、彼の口からその手のことは一言も聞いたことはありませんが、大学時代は自分の非力も顧みず、十州に進出していたので、某さんとも試合で一緒になることがままあり、何かの折に御当人某さんが自分でクッチャべってました。石川県で初めて十種7000点を突破したK橋君(M本先生の教え子初の国体選手[本人談])は人当たりがよく性格も素晴らしい人ですが、順大の先輩としてN田君はよく面倒をしていたようです。私らの同期からはO森君(匿名になってませんが)が出ましたが、高校時代、5種競技では常にN田君が勝っていたと思います。O森君も別次元まで到達して尊敬していますが、N田君は今でも私のヒーローの一人です。O森君が余りに偉大で影が薄くなりがちだったN野君、面識はありませんが、結構長く努力を続けて日本選手権に出場するまでの選手になりましたよね(確か大学は800のS口さんと一緒)。横目で見ながらエラい!と思ってました。同学年ではY田君が惜しかったですね。いかにもスプリンターという動きをしていてセンスはピカ1だったのではないでしょうか?

T中さん、大学卒業後、郷里に戻ってお父様の会社を手伝ってらっしゃいました。詳しくは知らないのですが、何かちゃんとした会社みたいで、成城大時代も「へ〜ぇ、怪物と思っていたけど、お坊ちゃんだったんだ」と近くで見てて思いました。ご指摘のスポンサーさん、多分、ご本人かと思われます。気さくでスケールの大きい方です。アクセスなさったら喜ばれると思いますよ。

県退会のマイル予選、私はゴール付近で荷物持ちをしていまして、Y尻さんは、最後の直線で先行2チームをかわしてテープを切られた…と目に焼き付いています。目線のフォーカスは鉄板2着からこぼれたA井さんに合っていましたが「やっぱりやられた〜」っていうシーンでしたから。

A井さん。
多分Y井さんと私の間の学年の方で、2年生時に800mで福井の北信越に出場した方ですね。彼女は飛び抜けて秀才だったそうで(注:悲しいかな、当時は彼女に特別関心なく…なんともInnocenseに柔軟とか一緒にやってました[苦笑])大学は津田塾の理系に進まれ、某大企業の研究職に就かれた…ところまでは存じています。彼女と一緒にロングスプリントをしていたN尾さんの方が、あちこちのかたから「ヒューヒュー」と言われてましたけど。こちらもオツムよろしくK沢大学に進まれ、在学中、タウン誌の表紙を飾ったとか、なんだかんだいろんな情報が耳に入ってました。こちらもお育ちがよく、8月1日にクラブで海水浴に行くという恒例行事(*今から思うとなんともったいない?ことを…ひたすらInnnocenseに参加していた私)に「バイオリンのレンッスンがあるから行けない」って、いい訳ではなくマジで申し訳なさそうに辞退されてました。ついでに同級の某ちゃんもK沢大ではアイドルだったそうで、女子は少なかったですけどレベルは高かったみたいです。何しとったんやろ?って感じです。

A井さんは別名「シブ井さん」と呼ばれていたキャプテンで、とにかく何から何までハードボイルドとはまた違う地に足のついた方でした。彼は犀川中学の出身で、自宅から学校まで20km近くの山道を一番軽いギヤで通ってらっしゃいました。T野先輩が颯爽と走られた73年の金沢市大会に犀川中学からただ一人、入場行進から白短パン・白ランニングで参加されていた人がいて、高校入学後「そんな人いましたねえ」って(無邪気に)言ったら「そりゃあワッシやぁ」って返されてタラ〜っていうこともありました。K沢大に進まれて本業?の野球に戻られ、地元で教員になられたはずです。

私も大学卒業後は石川に戻って4年間教職についてました。採用が小松だった関係で、加賀地区にも研修に行ったりしましたが、当時は動橋(懐かしき地名)の少年陸上クラブが盛んで、加賀地区から陸上の大物選手が多々出てくるのはそういったシステムからか!と感心したものです。
元々温めていた研究職への思い断ちがたく、石川を出て四半世紀近くになってしまいました。ひょっとしたら、「だからこそ昔の印象が鮮明なのかもしれません。

いずれ日本に戻る予定ですので、帰郷の際は日程をよく調べておいて、競技場にも足を運べたらと思います。
まだ2年はこちらにいる予定です。
もし、いらっしゃることがおありでしたら、どうぞ、ご一報ください。通算7年目ですので、何かのお役にたてるかと思います。

高校時代のY尻さん、カッコよかったです。
今でもファンですから。

野田桜
※コメント書く場所、適当でなかったようで失礼しましたmm
Posted by 野田桜 at 2012年01月02日 20:04
>野田桜さん

再びのコメントありがとうございます。
コメントのIPからイタリアかと思っていましたが、正解だったようですね。

ピエトロ・メンネア…懐かしいですね。200m/19秒台ランナー、ミュンヘン五輪は銅メダルでしたか。
メンネアから更に一世代前ではアルミン・ハリーという100m/10秒0の選手もいたし、白人系スプリンターの伝統がある国ですね。

A井君の走りを「落ち着いて」見ることは少なかったです(同じレースに出ていることがおおかったから)が、
県大会400m準決勝は同組だったので、そのレースの写真には写っていますし、
4×400mR決勝では、3-7位が4走の水濠付近から団子状態の混戦になるなか彼が激走している映像もあります。
最終的に貴校は4着だったと記憶していますが(県工−大聖寺−星稜−貴校−中島−七尾...)。
なかなか、ワイルドな感じの人でした。

福井のT中君のことは、ホームページなどで見ると所謂「二代目社長」らしいですし、
「同一人物」で間違いないようですね。
一度コンタクトしてみたいと思います。
実は、彼とは現役の頃も機会あるたびに会話はしていたんですよ。

情報、ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。
Posted by Yujiri at 2012年01月03日 14:51
Y尻様

夜分に失礼いたします。
お忙しいところ、毎度のお返事ありがとうございます。

福井のT中さん、私も便りをしてみようかと思います。

あと、これまでとは脈絡ないことかもしれませんが、3年時の県大会で競り合われた七尾のN野さんはお医者さんになられたのではないですかね。あの年の七尾高校、チームとしても充実していましたが、前年まで(つまり土台づくり)をされたのは、松任高校で永年ポールの選手を輩出されたE角先生で、私は個人的にお世話になった関係で、76年時3年生の選手全員のことをその後も気にかけておられたのか、七尾時代のことも話題にされ、N野さんは文武両道でK沢大医学部に進まれた・・・ように伺いました。能登地区のポールの指導者は、ほぼ全員、E角先生がらみです。元々押水の方で、羽咋工業高校時代の恩師が中島〜高浜高校から名選手を多々輩出されたM先生、一級後輩が、中島高校黄金時代をコーチで支え、穴水や七尾高校から名選手を送り出されたN代先生・・・という繋がりがあります。E角先生、ご家庭の事情で松任のE角家にご夫婦で入っておられましたが、後年、そちらのご縁を解消されたので、I井先生として知られていますが、元々のご苗字です。

Y尻さん県大会初制覇時に「大聖寺の上位独占」を逆阻止したY外選手は、元々はロングスプリンターで、何かの試合の折、テントで休んでいたら転がって来た砲丸がアタマを直撃し、直後の記録会で100m11″3が出て、指導者疑心暗鬼のまま次の試合から100mにもエントリーするようになり、それが本職になってしまった・・・とは結構知る人ぞ知るエピソードですからご存知かもしれませんが、私はこの話、N代先生から伺いました。ですから、Y外選手が3年時に三冠を狙いに行ったのは、結構自信あってのことだったのかもしれません。

Y尻さんの前年に県大会を勝ち、IHにまで進出したN橋選手が2年時に勝てなかったのは、ウチの先輩のY口さん。Y口さんも三冠を狙ってたようですが、100mは翌年北信越を制することになる小松2年のT井さん、200mは同僚のTT井さんに阻止され、IHは100mで出られました。Y尻さんと同年で県工K内さんと中学時代はドッコイだったY口さん(マイルでは1走)は上記Y口さんの弟さんで、大聖寺のN島さんと砲丸や円盤で競っておられたY下さん共に白峰中学のご出身でした。

Y口さんが三冠を狙われた県大会やその年の春先の練習を金沢の市営陸上競技場で目撃した私は、前年に中学生では断トツだった1年生のT谷さんが先輩たちに歯が立たない様子やまとまっているチームの様子を見て「高校で陸上やるならあそこ」と思って進学してみたら、それ以前、県高校駅伝を五連覇した時の顧問T口先生が最後の年で、A井先輩の代を最後に低迷期に入ってしまいました。T口先生が気を入れて指導されたのはチームとしては76年時3年生の代が最後でした。

小松に勤めている時、北信越100mを制したT井さんと同姓同名の方が勤め先のすぐ近くにあり、「まさか(ご本人)?でもアリかな?」と思っていましたら、在任中に開かれた校下社会体育大会のリレーに参加され、おっさんたちの中、別次元の走りをさえていたのが印象的です。後に小松工〜東海大で活躍したD井君(110mH)の実家も目と鼻の先でした。

つい長くなってしまってスイマセン。
スイマセンついでに今は多分、大実高にいらっしゃると思われる元五輪選手I間先生はお元気でしょうか?
石川に転任してこられた頃は私の現役最後の時期で、五輪に出るために根本的な技術変革に迫られ、それが功を奏して標準記録を突破、見事出場にこぎつけられたというエピソードを読んでいた私は「あれって、どういうことだったんですか?」とズーズーしくも直接伺ったところ、懇切に説明して下さり、お陰さまで練習では飛躍的に記録を伸ばすことができていました。残念ながら、試合で額面通りの結果は残せませんでしたが、これからは仕事中心と競技から引くことを踏ん切らせて下さった恩人です。N島さんと小松工で一時ご一緒だったかもしれません。
後年、大聖寺から出る大物H出君(〜K沢大)なんかもI間先生に教わったのではないかと思っています。たしか、O谷さんの加賀高校の近くに住んでらしたような・・・。
因みに一緒に五輪出場されて8位に入られたT根Sさん、残念な出来事から、近年、表舞台に出てこられませんが、京王線北野駅(勿論ご存知ですね)から遠くない場所で家系ラーメン店を粛々と営んでおられます。東京勤務期、一時帰国期には必ず立ち寄り黙って食べて帰ってきました。トンコツ家系・・・結構イケます。

毎度長々とスイマセンmm
三が日も開け、いよいよお忙しいでしょうから、読んで笑って頂ければ十分です。
よき仕事始めをお祈りします。
野田桜 拝
Posted by 野田桜 at 2012年01月03日 23:43
>野田桜さん
色々と懐かしいお話しをいただいて、
私の錆び付いた記憶も徐々に蘇ってきています。

まず訂正ですが、先の私のコメント中、76年石川県高校陸上4×400mRの貴校と中島高校の順位ですが、確認したところ逆でした。
失礼しました。

E角先生(I井先生)については、あまりよく存じ上げません。
M先生は75年まで大聖寺実の顧問だったのでよく存じ上げています。
七尾高校陸上部で医者になったのは、ハードルや混成で活躍していたS君(一文字姓)だと思いますよ。
確か金沢大医学部に進んだはずです。
N田君(N野君ではなく)のその後はよく分かりません。

Y外選手がロングスプリンターだったのも初めて知りました。
73年の県大会400mを制した選手が貴校の「Y口t選手」というのは知っていましたが、私と同学年で白峰出身のY口m君が、その方の弟さんだというのも知りませんでした。

I間先生ね…
よくお見かけするんですが、会話らしい会話はしたことないんです。
理由は、、、恐そうだから(苦笑)
なお、その先生は石川県に来られる前、モントリオール五輪の前年(私の在学中)で東京インターハイの直前だったから7月でしょうか、大聖寺高校を訪れて、臨時に少し指導していただいたことがあります。
多分、奥さん(当時は婚約者?)の実家のある加賀市を訪れたついでだったと思いますね。
それらしい?女性同伴でしたから。
当時は、静岡の沼津聾学校教員だったと思いますが。

以上、いただいたコメントにお答えするだけになってしまいましたがご容赦ください。
Posted by Yujiri at 2012年01月04日 08:49
Y尻様

今日も一日お疲れさまでした。
私は只今昼休みです。

4×400mRの順位、わざわざお調べ頂いて恐縮ですmm
あのチームは前年の新人戦で優勝しているんですよね。
その年の新人戦の開会式で新キャプテンが優勝カップを返還したのを覚えています。(本校、リレーも組めないたった3人αで参加[涙])。

Y尻さん2年時の国体予選の時、決勝で2位に入ったのはA井先輩。その話を入部したての頃にしていたら、予選で同じくらいのタイムで走り、決勝は棄権したというロングJ専門のK田先輩が「ありゃあオレが譲ってやったんや」ってこちらはチトキツイ先輩でした。K田さんが向陽のY田さんと親しかったのと、本校は津幡、宇ノ気、高松あたりから勉強もスポーツも優秀な生徒が通っていたため、高松ご出身のY田さんは特にチーム内では話題になる方でした。

七尾出身の医学部進学者。
これは、私のアタマが混線しているのだと思います。
N田さんをN野さんと書いているくらいですので・・・失礼しましたmm
七尾の76年時3年生の方々は、現役の時も卒業後も、競技場では必ずE角先生(当時)のところに来て挨拶されたり、テントでくつろがれたりしていましたので、多分、七尾時代は新採用だったE角先生は特別熱心にお世話をされていたのだと思います。
私が高3の頃、大聖寺の顧問をされていたK山先生は大学の一級先輩とかで、E角先生は人脈の豊かな方でした。一重にお人柄かと思います。

I間先生、お元気そうで(笑)何よりです。
結構ツッパラかる方でもありましたし、指導は厳しいので84年、最初に赴任された頃、ついてたあだ名は「Ganmmer」でした。
私は今金沢錦丘で勤務しているHJ・十種のK橋君から「陸マガ少年だったでしょ」って言われ、確かにそうだたっため、I間先生が苦労人で気持ちのある人って確信していたのと、直接の教え子でなかったからか、よくお話をさせて頂きました。
こうやって綴っていると『ヤワラちゃん』に出てくる松田記者みたい・・・って自分で思います。高校時代、専門種目を教えてくれる先生が間近にいなかったため、あちこちの先生のところに行って教えを乞うてましたので、自然「耳年増」になってしまったのかもしれません。一番最初に0から1くらいのところを教わったのは、現・小松大谷と称している学校の北大路欣也に似た(※勝手にそういう印象をもってました)先生でしたが、こちらも思いっきり怖〜い先生でした。

さて、本業に戻ります。
福井のT中さんにアクセスしてみますので、何かあったら必ずお知らせさせて頂きます。
では、また。
野田桜 拝
Posted by 野田桜 at 2012年01月04日 20:47
>野田桜さん
色々ありがとうございます。
おかげで若き日の記憶が蘇り、多少は萎えかけていた陸上へのモチベーションが持ち直したかも知れません。

なお今後、(特にT中君絡みで)デリケートな情報を含む内容のご連絡をいただくケースがありましたら、
右サイドバーにあります「郵便受け」アイコンからメールフォームが立ち上がりますので、ご利用ください。
Posted by Yujiri at 2012年01月05日 09:04
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